どうしてネット上に意見を書き残すのか

昨日灰色ハイジさん(@haiji505)がTwitterで紹介されていたVlogで大変興味深いお話を聴いた。タイトルは「ぼくらはどうして個人ウェブサイトをつくるのか」(june29さんとhmskさんの対談)。

 

 

ネット上に意見を残す意義は、突き詰めると自分の生きた証を残すことではないか。

それは子孫を残したいという人間としての本能に近い気がしている。

もちろん時が経てば自分の意見は変わるが、その移ろいこそが生身の人間らしい気がする。

そしてネットは永遠ではないというのも、また味わい深い。

それでも人の目に触れるネットに書き残すことの意味はある。ただ自分のノートに残した日記とは違った緊張感が生まれる。それは例えば家ではきちんとお洒落できないが、外に出て人の目に晒されるならきちんとしていこうと思う気持ちに似ている。

 

そして最近思うのはひとはみな能力を認められたいんだなと。

 

人よりも美しい、人よりも賢い、人よりも鋭い意見が言える、人よりも優しい、人よりもお金を稼げるなど。

それをアピールすることでマウンティングや匂わせになり揉め事になっている場合もあるが。

端的にいうと、うちの子(小1)が良く言う「(わたし)すごいでしょう!!」だ。

これは人間の本能であると思う。

 

それを理解した上でうまくみんなが自分の能力を活かしていける社会になれば良いなあと思う。

ひとは輝ける役割がないと元気でいられないと思う。

苦手なこと、嫌なことばかりしていたらそりゃ疲れる。

そういうことはそれが得意な人に代わってもらって、得意なことをやればいいと思う。

これはわたしの信条とも言えるかもしれない。

 

そもそもわたしは祖母が元代用教員、母が銀行員という真面目な家庭に育ったので、小さい頃から勉強はできないとダメという意識が強くあった(母はさらに強いられていたようだが)。

しかし、小1のとき、繰り下がりのある引き算のテストで0点を取った。

とてもショックでその時心に誓ったのが

「算数は出来ないから、出来る人と結婚して助けてもらおう。」

0点をとるなんてよっぽどだと自分の能力に見切りを付けた。

そして体育もできなかったので、「体育と算数が得意な人と結婚しよう!」と決めた。

それからずっと理系の運動部の彼氏ばかりと付き合い、高専卒のサッカー部員だった夫と結婚した。

理系の男性はわたしの得意な書くこと、話すことに苦手意識がある人が多く、そこもよかった。

自分も役に立てるから。

夫の話はとてもつまらないが、そこがよかった。

わたしの話をいつも面白いと喜んでもらえてとても嬉しい。

そしてとても体力があり気分の波が少なく安定しており冷静な主人がいてくれてとても安心して暮らせている。もちろん生活における理系的なあれこれはお任せできる。

 

 

この話をすると自分の事を客観的に見てるね。と言われるし、自分でも打算的というか愛情とか優先じゃないのかとも思うけど、そういう自分にない能力がある人の話を聞くのがとても好きだし、尊敬できるのでこれはこれで愛なのではないかとも思う。

 

結婚相手を選ぶことについては人生の大部分の時間を費やして考えてきたので追々書いてみたい。

 

わたしは書くことが好きで、過去にもSNSだけでなくいろんなブログをやってはやめてきたので、このブログも続く気があまりしないが、先述のとおり生きている証を少し残していきたい。